詩を忘れた金糸雀は愛の音色に紡ぎ囀る

二人用
【プロローグ】
彼女
(M)
貴方の気持ちに、鍵をかける…
彼
(M)
金糸雀に魅せられた、月夜の海…
彼女
(M)
叶わぬ指先が、静かに溶け出して…
彼
(M)
消える香りに、縋り付く…
彼女
(M)
想いの海へ、貴方と共に…
彼
(M)
浮かび、漂い…沈み逝く…
【現在 一】
彼
(M)
金糸雀を抱く指に、力を込める…
彼女
(M)
貴方の指が、かすかに震えているのが分かる…
彼
(M)
金糸雀の細くか細い首筋へ、ゆっくりと指を添えていく…
彼女
(M)
指先は氷のように冷たくて…貴方の緊張が、わたくしの肌を通して伝わってくる…
彼
怖くない?
彼女
ふふ…どうして…幸せすぎて…溶けてしまいそうですわ…
彼
貴女は…嘘つきだから…
彼女
貴方のピアノを奏でる指…少し骨ばっていて…わたくし、とても好きなのです…
彼
(M)
金糸雀の指が、僕の指先に絡む…首筋から脈打つ鼓動の先へと、導かれていく…
彼女
(M)
幻想的に想いを綴る、美しく情緒ある世界…
それは、貴方がわたくしに与えてくださった音色でした…
彼
君という存在が初めて、僕に生きた意味を与えてくれた…
背徳の海原へ漕ぎ出す船は、月明かりを浴びて進む…
その行く末が沈む定めだとしても…それすら幸せに感じるのは、君と一緒だから…
彼女
わたくしのわがままを…どうか、赦さないでくださいませ…
彼
赦さない…だから…一緒に逝こう…
【回想 一】
彼
(M)
売れない作曲家。
そんな僕にちょうど良いと金を握らせ…
「妻の誕生日だから、ピアノを弾いてほしい」
侯爵はそう言い放った。
正直、哀れみからの依頼だったとしても…その金額は僕には高額で、ありがたかった。
そして招かれた侯爵家で…
僕は、一羽の金糸雀のような貴女と出逢った…
彼女
(M)
夫に連れられて現れた貴方は…若さの中に悲しげな面影を宿していた。
けれど、わたくしの瞳を見つめた瞬間…
まるで花が静かに咲くような笑顔で、優しく微笑みかけてくださった。
彼
なんて…美しい方なんだ…
真莉愛様…お誕生日、おめでとうございます。
僕が綴った『恋に捧げるセレナーデ』を…演奏させていただきます。
彼女
(M)
演奏が始まって間もなく…
「好きなだけ弾いて差し上げなさい」
そう言い残し…
夫は誕生日の主役であるわたくしを置き去りにして、今日も愛人の元へと去っていった。
彼
(M)
残された貴女は…何事もなかったように立ち上がる。
僕が座るピアノの隣へ腰掛けると…
演奏を終えた僕の指を…切なそうに…
けれど、とても愛おしそうに…ゆっくりとなぞり始めた。
彼女
綺麗な…指をしているのですね…
彼
あの…僕の演奏は…お気に召しませんでしたか?
彼女
いいえ…とても素敵な演奏でした。
この曲は…貴方が作曲なさったのでしょう?
彼
はい…
ですが結局は…ただの独りよがりです。
僕の旋律では…貴女を喜ばせることが出来なくて…申し訳ありません。
彼女
そんなことはありません…
貴方の澄んだ音色に…わたくしは心を奪われました。
とても幸せな時間でしたわ…
彼
貴女は…やっぱり嘘つきですね…
彼女
本当ですわ…?
彼
涙が…悲鳴を上げるように溢れているのに…
彼女
どうか…気付かないふりをしていただけたら…助かります…
彼
(M)
まるで引き寄せられるように…
気付けば僕は…貴女を力いっぱい抱きしめていた…
彼女
(M)
わたくしより一回りも若い貴方の腕の中で…
張りつめていた心が…静かにほどけていく…
子どものように泣きながら…貴方の上着を濡らしてしまう…
彼
どうして…僕を突き飛ばさないんですか?
彼女
答えがなければ…いけませんか…?
彼
いいえ…
構いません…
貴女の心が…少しでも慰められるのなら…
彼女
では…
もう少しだけ…
このままで…いさせてくださいませ…
彼
(M)
ただ抱きしめているだけの時間…
彼女
(M)
けれど…わたくしの渇ききった心には…
確かに…温もりが染み渡っていた…
【現在 二】
彼
(M)
必死にピアノへ縋ってきた僕を気に入ったのか…
僕は週に二度…侯爵家へ通うこととなった…
ピアノの横へ…貴女は僕と並んで腰を掛ける…
僕の指と顔を交互に見つめながら…どこかもどかしそうな表情を浮かべていた…
美しい貴女が見せる…子どもっぽい顔…
最初は見つめられることが恥ずかしかった…
けれど…いつしかその時間は…
僕にとって…待ち遠しいものへと変わっていった…
貴女の元へ通い始め…ピアノを奏でていたある日…
即興の音色に合わせて…貴女が口ずさんだ歌声は…
まるで金糸雀のように澄み渡り…美しい囀りそのものだった…
あまりにも綺麗なその歌声に…僕は思わず…ピアノを弾く指を止めてしまった…
彼女
(M)
侯爵夫人という…名ばかりのわたくし…
夫が欲しかったのは…わたくし自身ではなく…家名という肩書きだけだった…
屋敷へ嫁いだ日から今日まで…夫に触れられたことは一度もない…
その理由を問いただせるほど…わたくしは大人ではありませんでした…
ここへ来た時のわたくしは…何も知らない子どもに過ぎなかったから…
時が過ぎる中で…財力と名誉のために売られたのだと理解した…
夫は…男性しか愛せない人だった…
わたくしは…家族にも愛されず育った…
だからこそ…わたくしを選んでくださった夫を…心から愛そうと思った…
けれど…その想いは泡のように消えてしまう…
逃げることも出来ず…
愛されることもなく…
わたくしは…籠の中の鳥となり果てた…
そんなわたくしを…若く美しいピアノ弾きの貴方は…
忘れていた何かを思い出させるように…何度も褒めてくださった…
それが嬉しくて…
けれど…とても怖かった…
彼
美しい…
なんて美しくて…綺麗な歌声なんだ…
もっと自由に歌えばいいのに…
彼女
褒めてくださって…ありがとう…
けれど…わたくしは…歌を忘れた金糸雀なのです…
彼
歌を忘れた金糸雀は…
象牙の船に…銀の櫂…
月夜の海に浮かべれば…忘れた歌を思い出す…
金糸雀は…歌を忘れたんじゃない…
歌える場所を…探しているだけじゃないのかな…
彼女
鳴かない金糸雀は…
山へ捨てられた方が…楽だったのかもしれませんわ…
彼
歌を…思い出したくはないの?
彼女
わたくしは…
最初から…歌など知りません…
彼
相変わらず…
貴女は…嘘が下手だ…
【回想 二】
彼
(M)
君は…本当のことを何も話そうとはしない…
だが…本人の意思など関係なく…
人の噂に戸は立てられない…
嫌でも…耳に入ってくる…
彼女
(M)
望んでも…変わらない未来に打ちのめされるのなら…
一人でこの世界を終わらせる方が…ずっと楽なのだと思っていた…
彼
(M)
気丈に振る舞う君は…気高く美しかった…
けれど…未来を描かない姿は…どこか不均衡で…
今にも…崩れ落ちてしまいそうだった…
それでも君は…僕のピアノの音色に合わせて…
楔から解き放たれた一瞬の時間を…心へ刻み込むように…
美しい羽を羽ばたかせるように…
金糸雀は…囀ってみせた…
彼女
(M)
この愛しい時間は…生まれて初めて…
わたくしの心へ…幸福の欠片を与えてくれた…
誰からも必要とされなかったわたくしが…
森の中へ隠れ…自由に鳥たちと歌っていた頃を思い出す…
いつか誰かが…手を差し伸べてくださると…
少女だったわたくしは…夢を見てしまった…
夢を見ることの絶望は…傷を静かに膿ませていく…
期待は…愚かさと紙一重…
どれだけ足掻こうと…のたうち回ろうと…
愛されない者は…愛されないという現実を知るだけ…
これが…わたくしの背負う運命なのだと…
彼女
(M)
それなのに…
わたくしは…
彼
(M)
貴女を知るほど…
心を奪われていく…
彼女
(M)
貴方に…
恋をしてしまった…
【現在 三】
彼
(M)
サイドテーブルにこぼれた白い錠剤と、赤く輝くワイン。
彼女
(M)
最期を迎えるための導き手は、ゆっくりと二人を想いの海原へ誘っていく。
彼
君の憂う顔……すごく、綺麗だよ。
彼女
巻き込むつもりなんて、なかったのに……。
どうして、来てしまったの?
彼
巻き込まれたんじゃない。
僕が、金糸雀を愛してしまっただけだ。
迷惑だなんて言わせない。
君も僕を望んでくれていたと、そう自惚れている。
彼女
貴方は才能を持った人なのよ?
いくらでも、この先を変えられたかもしれないのに。
彼
気休めはいらない。
……欲しいのは、目の前の君と。
終止符を奏でる、この愛だけでいい。
彼女
時代より先に、貴方の旋律が生まれてしまっただけなのよ。
貴方は、未来を紡げる人。
だからわたくしは……貴方に、生きてほしいの。
彼
(M)
君が歌声も、自分の命さえも、すべてを手放すつもりなのだと感じた時。
僕の心には、一片の迷いもなかった。
彼女
(M)
あの日、貴方を突き放したのは。
夢を見てしまいそうになった、わたくし自身への戒めだったのに。
彼
ここまで、頑張ってきたつもりだ。
諦めず、歯を食いしばって生きてきた。

いつか大勢の人に愛される曲を生み出せると、夢を見ていた。
その夢が叶うかもしれないと信じて、踏ん張ってきたんだ。
彼女
ええ、わかっているわ。
でも、貴方はまだ若いの。
ここで諦めてはいけないわ。
彼
貴女が一番……わかっているくせに。
叶わないことの苦しさを……!
彼女
(M)
「別れてほしい」
主人にそう告げると、彼はわたくしに冷淡な笑みを向けた。
「君は私にとって、肩書き以外の価値はない。
私が君の家を救った、救世主そのものなのだ。
生涯、君は美しい飾り物であればいい」
彼
(M)
泣くことも、笑うこともできない金糸雀は。
――歌うことを、忘れてしまったのだ。
彼女
(M)
家に戻ろうとしたわたくしに、両親は冷たく言い放った。
「あなたが戻る場所などない」と。
わかっていたことだったのに。
なぜ、ふたたび夢を追いかけてしまったのか。
彼
(M)
生きることは、なぜこうも耐えがたい日々の積み重ねなのだろう。
彼女
(M)
願うことも許されず。
引き返すことさえ、許されない。
彼
(M)
どれだけ足掻こうと、否応なく打ちのめされる。
報われない努力の破片ばかりが、足元に散らばっていく。
彼女
(M)
身のほど知らずなことを願わなければ。
生きることには、困らなかったのでしょうか。
彼
(M)
貴女を想い、渾身で綴った曲を。
「才能のない者の調べなど、聞く価値もない」と嘲笑された。
散らばった譜面は、まるで僕自身のように、靴で踏みにじられていった。
屈辱だった。
けれどそれ以上に、君への愛そのものを否定されたようで。
僕はその場で、息ができなくなった。
彼女
(M)
誰も皆、心から愛されて生きていたい。
自分という存在を、認めてほしいだけなのに。
彼
ここまで、頑張ってきたつもりだ。
諦めず、歯を食いしばって生きてきた。
いつか大勢の人に愛される曲を生み出せると、夢を見ていた。
その夢が叶うかもしれないと信じて、踏ん張ってきたんだ。
彼女
ええ、わかっているわ。
でも、貴方はまだ若いの。
ここで諦めてはいけないわ。
彼
貴女が一番……わかっているくせに。
叶わないことの苦しさを……!
彼女
(M)
「別れてほしい」
主人にそう告げると、彼はわたくしに冷淡な笑みを向けた。
「君は私にとって、肩書き以外の価値はない。
私が君の家を救った、救世主そのものなのだ。
生涯、君は美しい飾り物であればいい」
彼
(M)
泣くことも、笑うこともできない金糸雀は。
――歌うことを、忘れてしまったのだ。
彼女
(M)
家に戻ろうとしたわたくしに、両親は冷たく言い放った。
「あなたが戻る場所などない」と。
わかっていたことだったのに。
なぜ、ふたたび夢を追いかけてしまったのか。
彼
(M)
生きることは、なぜこうも耐えがたい日々の積み重ねなのだろう。
彼女
(M)
願うことも許されず。
引き返すことさえ、許されない。
彼
(M)
どれだけ足掻こうと、否応なく打ちのめされる。
報われない努力の破片ばかりが、足元に散らばっていく。
彼女
(M)
身のほど知らずなことを願わなければ。
生きることには、困らなかったのでしょうか。
彼
(M)
貴女を想い、渾身で綴った曲を。
「才能のない者の調べなど、聞く価値もない」と嘲笑された。
散らばった譜面は、まるで僕自身のように、靴で踏みにじられていった。
屈辱だった。
けれどそれ以上に、君への愛そのものを否定されたようで。
僕はその場で、息ができなくなった。
彼女
(M)
誰も皆、心から愛されて生きていたい。
自分という存在を、認めてほしいだけなのに。
彼
生きる価値を見出せなかった僕が。
君に出逢えたことで、初めて生きていることに感謝したんだ。
彼女
……ごめんなさい。
わたくしが、貴方を願ってしまったせいなの。
彼
謝らないで。
これは、僕自身が望んだことだ。
それからもう……僕の前で嘘を吐かなくていい。
彼女
誰かと心を分かち合いたいと願ってしまった。
わたくしの弱さで、貴方を巻き込んでしまった。
本当に……ごめんなさい。
彼
違う。
僕も、貴女と同じなんだ。
だからこそ、貴女にありがとうを伝えたい。
僕を愛し、望んでくれたことを誇りたい。
貴女と逝くなら、本望だから。
彼女
生きることに疲れ果てていたわたくしに。
幸福の欠片を、貴方が与えてくれたの。
お礼を言うなら、わたくしの方なのよ。
彼
自分の存在を認めてくれた君に恋をして。
僕は、愛するという尊さを知った。
そして君と自由な世界へ旅立つために、ここへ来たんだ。
君だけを、逝かせたりしない。
彼女
ひと回りも年の違うわたくしが、貴方を欲しがること。
貴方の未来を止めてしまうこと。
神は、赦しはしないでしょう。
彼
背徳という罪で神に背いたとしても。
君と一緒に堕ちて逝くなら。
赦されて生きるより、僕は幸せだと断言する。
彼女
貴方と逝くことを……願ってもいいの?
彼
ああ。
願っていい。
彼女
わたくしの命を……。
貴方の手で、止めてくれないかしら。
彼
……ああ。
それが貴女の望みなら。
二人で月夜の海原へ旅立とう。
【回想 三】
彼
(M)
愛しい想いが、僕の中から静かに零れ落ちていく。
人を愛するということは、時に安らぎであり。
また時には、不安に心を支配されるものでもある。
「一喜一憂」。
その言葉こそ、恋というものを何より表している気がした。
彼女
(M)
生きる意味を見失っていたわたくしは。
週に二度、彼と過ごす時間の中で。
逢える日を待ち遠しく思う自分が、嬉しくもあり。
それ以上に、欲張りになっていく自分が怖かった。
彼
貴女に捧げる曲を綴ってみたんだ。
君に一番最初に聴いてほしくて。
……聴いてくれないか?
彼女
……とても幻想的で、素敵な曲。
彼
君の笑顔も、仕草も、囀る歌声も。
僕なりに、この旋律へ込めてみたんだ。
君への想い、そのすべてを。
彼女
……貴方が描く旋律は。
未来を紡ぐために生まれた調べなのね。
時代が、まだ追いついていないだけ。
彼
……どうした?
今日は、どうしてそんな浮かない顔をしているんだ。
彼女
……貴方に会えたのに。
浮かない顔なんて、するはずがないでしょう?
彼
……言葉は、時として。
音楽よりも残酷だな。
彼女
……どうして、そう思うの?
彼
本心を、言葉のベールが覆い隠してしまうから。
見えなくなるほど、綺麗に。
彼女
……けれど純粋な言葉は。
時に凶器にもなって、心さえ抉り取るのよ。
彼
君が僕に与える傷なら、甘んじて受け入れる。
君がそれで、本心を隠さずに済むのなら。
彼女
……そう。
ならば来週から、もうここへ来なくていいわ。
彼
――何を言っているんだ。
どうして、急にそんなことを……!
彼女
……飽きてしまったから、かしら。
彼
嫌だ。
そんなこと、受け入れられるわけがない。
ひどすぎるよ。
僕は、貴女と離れたくない。
彼女
……半年の間、とても楽しかったわ。
どうぞ貴方の未来が、神の加護に満ちたものでありますように。
彼
――どうして。
どうして貴女まで、僕を突き放すんだ。
神なんて、何も救ってくれないだろ。
神の加護なんていらない。
君がいれば、僕はそれだけでいいのに。
彼女
……あなたは、幸せでいてね。
では、ごきげんよう。
彼
(M)
無表情のまま部屋を出ていった金糸雀は。
そのまま、僕に振り返ることはなかった――。
彼女
(M)
わたくしは、わたくしの物語を終わらせる。
幸せというものを見出せなかったわたくしに。
貴方と過ごした時間は、生きたことを後悔しなくて済むほどの。
眩い幸福の欠片を、確かに与えてくれた。
どうか貴方の未来が。
誰よりも、神の加護に満ちたものでありますように。
これ以上、貴方と共にいれば。
わたくしはきっと、欲しがってしまう。
貴方の手を、未来を、そのすべてを。
時代さえ追いつけば、彼はきっと、その才能を見出される。
わたくしに捧げてくれた曲を聴いて、確信した。
涙が溢れて止まらないほど、貴方の愛が綴られた曲。
その想いだけで、わたくしは十分すぎるほど、生きた証を得た。
だからこそ。
この世界で生きる意味を諦めたわたくしは。
細胞のすべてに、渾身の嘘を塗り固める。
「貴方は、わたくしには必要のない人」なのだと。
彼
(M)
君の元へ、何度も通った。
面会を求めても、二度と逢うことは叶わなかった。
想いが張り裂けそうで。
それを紛らわせるために、僕は作曲に没頭した。
誰かのためではない。
君のための練習曲を、ただひたすらに綴る。
僕のピアノに、君の囀る詩が重なり。
旋律となって、幾度も交差していく。
僕は君といれば幸せなのだと。
その想いを、調べの奥深くへ繋げていく。
君へ届けるために、綴り続ける。
この曲が完成すれば。
僕はもう、後悔などない。
【現在 四】
彼女
(M)
この広い屋敷の最上階、その奥に。
わたくしは、新しい部屋を主人から与えられた。
大きな化粧台の前に置かれた、一通の手紙。
それを読み終えた時。
心を繋ぎ止めていた最後の糸が、雷鳴のような音を立てて切れた。

《主人からの手紙》
「ご両親から聞いた。
私の性癖を知ってしまったんだね。
だが、君さえ我慢すれば皆が幸せでいられる。
ご両親も、私も、そして君も。
君を取り巻く、すべての人間が。
新しい部屋で、与えられた時を静かに過ごしなさい。
――君は、籠の中の鳥だ。
外へ羽ばたけば、生きることさえできない。
それくらい、わかるだろう?」
彼女
(M)
――わたくしは、自由になれない籠の鳥。
籠の中で、独り静かに息絶えることを望まれている。
ずっと感じながら、目を背け続けてきた現実。
けれど言葉として突きつけられ、その残酷さを思い知った。
――これでもう、思い残すことはない。
永い眠りへと誘う時は、静かにわたくしを迎えに来ている。
本当の自由へと、旅立ちましょう。
貴方がわたくしのために綴ってくれた旋律に包まれながら。
深い眠りへ就けるのなら、それ以上の願いはない。
彼女
――今夜は満月。
月の光に照らされて漂う海原は、きっと美しいのでしょうね……。
彼女
(M)
用意していたワインの栓を抜き。
一口だけ含み、その芳醇な香りを胸いっぱいに感じる。
瞳を閉じれば。
貴方が奏でるピアノの音色が、記憶の旋律となって心を満たしていく。
貴方と過ごした時間は。
満たされなかったわたくしの心を、確かに救ってくれた。
嗚呼……。
今、とても幸せよ。
彼
君の本心を……。
僕には、与えてくれないのか?
彼女
(M)
部屋の外から、甘く切ない貴方の声が聞こえた気がした。
覚束ない足取りのまま、その声に誘われるようにバルコニーの窓へ近づく。
視線を向けると。
すっかり痩せてしまった貴方が、手摺に腰を掛けていた。
そして切ない瞳で、わたくしを見つめていた。
彼
……君に逢いたかった。
彼女
……どうして。
ここは、三階なのよ?
彼
この木を伝ってきた。
……ずっと、逢いたかった。
どうか貴女と僕を隔てる、この窓を開けてくれませんか。
彼女
……だめよ、帰って。
彼
……そうか、わかったよ。
僕が帰る場所は、一つだけしかないんだ。
そこへ戻ることができないのなら。
先に、旅立つことにするよ。
彼女
(M)
手摺から身体を翻し、宙へ身を投げ出そうとした貴方へ。
わたくしは慌てて手を伸ばし、必死に縋りついた。
彼
やっと、君を捕まえた。
逢いたかった。
彼女
どうして……。
どうして、来てしまったの?
彼
(M)
ふらつきながらも、必死に僕へ手を伸ばす君が愛おしかった。
強く抱きしめながら、腕の中の金糸雀はやはり嘘つきだったのだと知る。
息もできないほど深く口づけて。
二度と僕の元から逃がさないと、心に誓った。
彼
わかっているだろう?
君と一緒に、銀の月に照らされて旅立つためさ。
彼女
わたくし一人でよかったのよ。
貴方の人生まで、巻き込むつもりはないの。
彼
わかっているさ。
君が嘘を吐く、そのすべては。
誰かを守るためなのだと。
自分の想いを押し殺してまで……ね。
でも僕は、そのすべてが愛しいんだ。
彼女
ああ……。
貴方は、狡いわ。
わたくしが願っていた言葉を、与えてしまう。
知らないままで、いさせてくれればよかったのに。
彼
僕が貴女に与えられるものは、とても少ない。
それでも僕は、誰よりも君を欲している。
この想いだけは、誰にも負けない。
だから、僕のすべてを貴女へ差し出そう。
――君を愛している。
彼女
(M)
貴方の瞳には、揺るがない意志が刻まれていた。
乾ききったわたくしの心に、愛が染み渡っていく。
彼
(M)
独りではない。
ただそれだけのことが、こんなにも世界を美しいものへ変えていく。
この選択を、誰かは間違いだと嘲笑うかもしれない。
それでも生きるべきだと、諭す者もいるかもしれない。
彼女
(M)
人から見れば、絶望の淵で選んだ道にしか映らないのでしょう。
彼
(M)
でも、それでいい。
彼女
(M)
間違いなく、わたくしたち自身が選んだ道。
心を重ね合い、銀の月に照らされながら。
二人で漕ぎ出すこの船旅には、幸せしかないのだから。
彼
君の唇から。
最期の口づけを、僕に与えてくれないか。
彼女
ええ……。
わたくしも、貴方の温もりを。
最期まで感じていたい。
彼
(M)
静かな月明かりだけが、二人を優しく照らしていた。
重ねた唇の温もりは、言葉よりも深く。
互いの想いを確かめ合うように、長い時を刻んでいく。
彼女
(M)
貴方の腕の中は、不思議なほど穏やかだった。
恐れも、孤独も。
その温もりの中で、静かにほどけていく。
彼
(M)
言葉はもう必要なかった。
ただ互いの鼓動だけが、愛の証として静かに重なっていた。
彼
……最期に。
君の温もりを、僕に刻ませてほしい。
彼女
ええ……。
わたくしも、貴方のぬくもりを。
この心に、永遠に残しておきたいの。
彼
(M)
月明かりだけが、静かに二人を包んでいた。
重ねた唇は、言葉よりも雄弁に。
互いの想いを、確かめ合うように時を刻んでいく。
彼女
(M)
抱き寄せられた胸の鼓動は。
愛されることを知らなかった、わたくしの心を優しく満たしていく。
もう、何も怖くなかった。
彼
(M)
震える肩をそっと抱き寄せる。
乱れた呼吸さえも愛おしく。
離れていた時間を埋めるように。
僕は何度も、その額へ口づけを落とした。
彼女
……こんなにも幸せで。
こんなにも満たされる日が来るなんて。
思ってもいなかったわ……。
彼
君は、誰よりも愛されるべき人だ。
だから僕は、この一瞬を永遠に変えたい。
彼女
(M)
彼の腕に包まれているだけで。
長い冬のようだった人生が、ようやく春を知った気がした。
その幸せが、あまりにも遅すぎたことだけが。
ただ、切なかった。
彼
……君を見つめていると。
この世界のすべてが、静かに色を失っていく。
残るのは、君だけだ。
彼女
そんなにも見つめられたら……。
恥ずかしくなってしまうわ。
彼
見惚れているんだ。
君の微笑みも、瞳も。
儚ささえ、美しい。
彼女
(M)
貴方の指先が、そっとわたくしの頬へ触れる。
その優しさは、壊れ物を扱うように繊細で。
愛されるということは、こんなにも温かいものなのだと知った。
彼
(M)
涙を拭うたび、君は少しだけ微笑んだ。
その笑顔を守れなかった世界が、僕にはあまりにも残酷だった。
彼女
もし……。
もっと早く、貴方と出逢えていたなら。
彼
考えないで。
僕にとって大切なのは。
こうして、今。
君が僕の隣にいてくれることだから。
彼女
……ありがとう。
その言葉だけで。
わたくしは、生まれてきてよかったと思えるの。
彼
(M)
僕は君を静かに抱き寄せた。
互いの鼓動が重なり。
流れていた時間さえ、ゆっくりと止まっていくようだった。
彼女
(M)
月明かりは、祝福するようにわたくしたちを照らしていた。
寄り添う二つの影は、まるで一つの旋律のように静かに重なり合う。
この一瞬だけは、誰にも奪われない。
それだけで、十分幸せだった。
彼
……君の笑顔を。
僕は、生涯忘れない。
彼女
わたくしも。
貴方の奏でる音色を、忘れることはないわ。
彼
(M)
言葉を交わすたびに。
互いの鼓動が、静かな夜の中で重なっていく。
もう何も恐れるものはなかった。
彼女
(M)
温かな腕に包まれているだけで。
凍りついていた心が、ゆっくりとほどけていく。
こんなにも穏やかな時間が、この世にあったのだと。
わたくしは初めて知った。
彼女
貴方と過ごした時間は。
わたくしの人生、そのすべての宝物よ。
彼
僕も同じだ。
君に出逢えたから。
僕は初めて、愛することの意味を知った。
彼女
もし、生まれ変わることが叶うなら。
今度は何ものにも縛られず。
貴方の隣を歩いてみたい。
彼
その時は。
最初に君へ恋をする。
そして誰よりも先に、君へ愛を伝えるよ。
彼女
ふふ……。
それでは、わたくしが断る理由なんてなくなってしまうわね。
彼
(M)
互いに微笑み合う、その一瞬。
月明かりは静かに二人を照らし。
寄り添う影だけが、この世界に残された唯一の真実のようだった。
彼女
(M)
愛とは。
誰かを手に入れることではなく。
その人の幸せを願いながら
それでも共に在りたいと願うこと。
その答えを…
わたくしたちはようやく見つけることができた。
彼女
……貴方に、一つだけ。
最期に、お願いしてもいいかしら。
彼
君の願いなら。
僕にできることなら、何でも聞こう。
彼女
(M)
言葉にしてしまえば。
きっと、この静かな夜は壊れてしまう。
それでも、この人だけには。
偽りのない想いを残しておきたかった。
彼女
わたくしは……。
貴方に出逢えたことを、一度も後悔したことはないわ。
だから、どうか。
最後まで、わたくしの傍にいて。
彼
約束する。
どんな瞬間も、君を独りにはしない。
その約束だけは、誰にも奪わせない。
彼女
(M)
その言葉だけで十分だった。
永く閉ざされていた心が、静かにほどけていく。
月明かりに照らされた彼の横顔を見つめながら。
わたくしは、ただ穏やかに微笑んだ。
彼女
……ありがとう。
その約束だけで、わたくしは救われるわ。
彼
救われたのは、僕の方だ。
君がいてくれたから。
僕は、僕でいられた。
彼女
ふふ……。
貴方は、本当に優しい人。
だからこそ、わたくしは恋をしてしまったのね。
彼
(M)
月は静かに二人を照らし続ける。
潮騒にも似た夜風だけが、長い沈黙を優しく運んでいた。
言葉を交わさなくても、互いの心は確かに重なっていた。
彼女
(M)
この静寂が、永遠ならよかった。
世界が、この一夜だけ止まってくれたなら。
そんな叶うはずもない願いさえ、美しく思えた。
彼
君は、後悔している?
僕と出逢ってしまったことを。
彼女
いいえ。
後悔ではなく、感謝しかないわ。
貴方が教えてくれたの。
人は、こんなにも誰かを愛せるのだと。
彼
なら……。
その言葉を胸に、僕は最後まで君の隣にいる。
彼女
(M)
そっと重ねた手の温もり。
そのぬくもりだけが、この世界に残された唯一の希望だった。
わたくしたちは静かに目を閉じ、互いの鼓動に耳を澄ませた。
彼
どれほど時代が僕らを引き裂こうとも。
君を愛した、この想いだけは誰にも奪えない。
彼女
わたくしも同じよ。
貴方に出逢えたことだけは。
どんな人生とも引き換えにはできない。
彼
(M)
夜風が二人の間を静かに吹き抜ける。
言葉は尽きても、想いだけは途切れることがなかった。
彼女
(M)
月明かりに照らされた彼の横顔を、わたくしは静かに見つめる。
この人を愛せたこと。
それだけが、わたくしの人生で最も美しい真実だった。
彼
(M)
震える指先が、ゆっくりと君の首元へ添えられる。
それは傷つけるためではなく。
もう二度と、この温もりを失いたくないと願う、僕の弱さそのものだった。
彼女
(M)
その手は震えていた。
誰よりも苦しみ、誰よりも迷っていることが。
触れられた温もりだけで、わたくしには伝わってきた。
彼女
……そんな顔を、しないで。
わたくしは今、とても幸せだから。
彼
君を失うことだけは。
どうしても、受け入れられない。
彼女
だから最後まで。
わたくしを見つめていて。
涙ではなく、その優しい瞳で。
彼
(M)
月明かりが、静かに二人を包んでいた。
重ねた手は離れない。
互いの鼓動だけが、言葉にならない想いを伝え続けていた。
彼女
(M)
貴方の手の震えが、愛の深さだった。
だからわたくしは、安心して微笑むことができた。
彼
(M)
幾度となく、その唇へ想いを重ねる。
触れるたび、満たされていく胸とは裏腹に。
失いたくないという願いだけが、静かに募っていく。
指先は震えながらも、壊れ物に触れるように君の頬をなぞった。
彼女
(M)
貴方の指先は、とても温かかった。
その温もりが、言葉よりも深く。
「独りではない」と、わたくしの心へ語りかけてくれる。
彼
……綺麗だ。
月明かりよりも。
君の微笑みの方が、ずっと。
彼女
……そんなふうに見つめられたら。
また、恋をしてしまうわ。
彼
(M)
幾度となく、その唇へ想いを重ねる。
触れるたび、胸の奥が静かに満たされていく。
言葉にならない願いだけが、月明かりへ溶けていく。
震える指先は、壊れ物を包むように君の頬をなぞる。
彼女
(M)
頬へ触れる、その温もり。
それだけで十分だった。
愛されるという意味が、静かに胸へ満ちていく。
閉ざされていた心が、春を迎えるようにほどけていく。
彼
(M)
月は何も語らない。
ただ、寄り添う二人を静かに照らしている。
風がカーテンを揺らし。
遠くで、夜がゆっくりと息をする。
彼女
(M)
この静寂さえ、美しい。
時が、このまま歩みを止めてくれたなら。
そんな儚い願いが、胸の中へそっと浮かぶ。
彼女
(M)
夜が静かに更けていく…月は変わらず…二人を優しく照らしている…
重ねた手の温もりだけが…今ここにある…確かな真実となる…
彼
(M)
言葉は夜風へ溶けていく…それでも…この想いだけは消えない…
君と出逢えた奇跡が…僕の胸の奥で…静かに旋律を奏で続ける…
彼女
ありがとう…本当に…うれし…い…
貴方に出逢えたことが…わたくしの…かけがえのない宝物になる…
ぎん…の…海が…とても…き、、れい
彼
あぁ…本当…に…綺麗…だ…っ…
彼女
(M)
月明かりに寄り添う二つの影…夜の静寂が…その想いをそっと包み込んでいく…
そして…夜はただ静かに…流れていく…
彼
(M)

指先から…愛しい人の脈が消えた
目の前の君の表情は…今まで見た中で一番美しく
優しい笑顔を…浮かべている…
俺は…使命を果たしたような安堵感と
焦燥感に苛まれながら嗚咽をあげ続けた…
微笑みを浮かべたままの君を抱き。
自身の身支度を整え終わると、
湯を張ったバスタブへと身を沈め…
まだ温かい君の肌に指を這わせながら
誘なわれる眠りの世界へ沈んで逝く。
不思議な程、穏やかで…
恐怖など微塵も感じない…
身体が沈んでいく湯船の中で…
一瞬、君の手が俺に伸びた気がした…。
最期の力を絞りだしながら…その指先に触れる。
離れる事がないように…
迷わず君の元へ辿り着く為に…
彼
君は…呼吸を…止めても…美しいまま…だ…よ
僕も、すぐ君のそばに行くから…
【エンディング】
彼女
(M)
二人の末路は、誰の目にも触れぬよう
密葬という形で、静かに幕を閉じた
薬の誤飲により急死した、侯爵の妻
彼
(M)
そして、変死したしがない作曲家
名もない若者
けれど、時が流れる中で
二人の愛の物語は、歌劇の歌曲として命を吹き込まれることになる
彼
(M)
一人の音楽家が、彼の残した楽譜と
彼女が歌うために綴られた詩を発見する
その旋律に涙し
やがて、この世へと送り出した
彼女
(M)
彼が描いた『名もない愛の練習曲エチュード』は、歌劇として世に送り出される
悲恋でありながら、深い愛の物語として
時代の痛みと重なり
瞬く間に人々の心へ刻まれていった
彼
(M)
金糸雀が象牙の船に揺られ
月夜の海へ旅立ったと語られてから、五十年
彼は未来を先駆けて音を紡いだ作曲家だったと
ようやく世に知られることとなった
彼女
ほら、だから申し上げたでしょう?
貴方は、才能ある方だったのです。
わたくしには、分かっておりましたの!
彼
君に出逢えたから、完成した曲だ。
今さら才能があったかなど、僕には大した意味を持たない
君が僕の綴る調べを愛してくれたなら
それだけで、十分なんだ!
彼女
貴方が描いた世界は、とても優しくて
やはり、未来を紡ぐ調べでしたわ?
彼
(M)
赦されることのない日々の中で
君に愛された一瞬を、今も覚えている
僕はこれからも、君のために綴り続ける
それはきっと、君へ捧げる愛の調べとなる
彼女
愛に彩りを与えてくださった貴方へ
わたくしは、これからも想い続ける
歌を忘れた金糸雀は
象牙の船に、銀の櫂
月夜の海に浮かべれば
忘れた歌を思い出す
彼
歌を思い出した金糸雀はきっと
今もどこかで、美しく囀り続けている
僕は、そう信じている
彼女
(M)
貴方は、わたくしへ愛を注ぎ
わたくしを優しく導いてくださった
彼
(M)
君は、僕を誰より愛し
誰より求め続けてくれた
彼女
(M)
不器用な愛し方しかできなかったけれど
彼
(M)
愛し方が分からなくて
いつも手探りだったけれど
彼女
(M)
だからこそ、わたくしたちだけの愛の意味を
彼
(M)
二人で見つけることができた
彼女
あの日々に、後悔はありませんの。
貴方と過ごした時間は
わたくしにとって、かけがえのない人生そのものでしたから。
彼
(M)
君の本当の想いへ辿り着けたこと
その温もりを知ることができたこと
それだけで、僕の人生は満たされていた
彼女
(M)
貴方に巡り逢えてよかった
彼
(M)
君を愛せてよかった
彼女
(M)
水辺に寄り添う二枚の木の葉は
今日も静かに揺らめいている
彼
(M)
歌を忘れた金糸雀は自由を取り戻し
その歌は、人々の心の中で生き続ける
――愛の練習曲エチュード

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